山城國の天井巣板に見る内曇は武士文化の誕生と共にし、800年近い歴史を持ち ます。 鉄の文化・山城國銘砥の文化の下支えなしては、中世以降の日本文化の興隆をも 危ぶまれることであったろうと思います。
初
代は、御所等の宮大工でしたが梅ヶ畑に移り、今日十七代目に至るまで採集さ れたの至宝の原石より挽き出されたものです。
新しく見積もっても戦後間もなくまでの採集品が多く、たまに片側を手挽き鋸で 裁断した痕跡のものもあります、要するに電気がなかった時代です。
多くの裁断面を見る限り、巣板は板なりで平行に積層を成し、巣なしです。
しかしながら中山近辺では、鉱床への変性が強く及び、巣板は巣だらけになっており多くは格下の品位となります。しかしながら巣板を捨てると言う大きな対価を支払うことにより、内部鉱床に位置する色物である、戸前・なみと・あいさなどの品位はより向上したものが採れます。
昭和中期に没した十六代の頃、昭和の中ほどの良き時代に、菖蒲谷池のほとりにそびえ立っていた山城銘砥の看板板の小さなものは今も中岡の手許に残っており、奥殿と大突の間 に挟まる白砥という山の石を台とした物で、趣深いものです。
現在の弊社山城國挽き場と主たる採取場は、十六代挽き場跡地である右京区梅ヶ畑向ノ地町に位置し、現存の最東南端にあたります。
紫の範囲内の原石は、他とは全く異なり非常に特徴的です。 梅が畑産や正本山を謳う石である以上、
ヘキ開性明瞭 ・ 側面積層痕際立って明 瞭 ・ 裏面皮付
であることが絶対必 要条件だと思います。 赤の八の字の範囲内のものは概ね、皮や色合い等が非常に近似しますがヘキ開性が大きく失われ、側面の積層痕も不明瞭であり、少し経験をつんでいただければ 見分けがつくと思います。
現在では、天然砥石全般を正本山と呼びますが、当初の定義において正本山として呼ぶには少し語弊があるかもしれません。